ポジションが定まらないヤツ

ポジションが定まらない奴のブログ

ここ数年の話と、このブログの終わり

ここ数年色々なことがあったので、整理する意味で書き留めておこうと思った次第です。

2017年

会社で作ったプロダクトが当たって、何度か表彰される。

これまで売れるプロダクトに関わっているかどうかという意味だと、なかなかプロダクトを軌道に乗せることができなかったが、10年近く会社に所属してようやく年間数億レベルのプロダクトを作ることができたのは素直に嬉しかった。

この年の末に、ベトナムにある開発子会社でのCTO職を打診された。

2018年

海外勤務×CTOということで、これからのキャリアにプラスになりそうだと考え、ベトナム行きを了承した。

年始から諸々の準備を整え、7月から本格的にベトナムハノイの開発子会社でCTO職としての業務を開始した。月の半分以上をベトナムで過ごすようになり、産まれて初めてのマンション暮らしをベトナムで開始する。

食わず嫌いと食べ物の好き嫌いが激しい為、ベトナム料理になじめず食事の面では結構苦労した。飛行機に乗るときの荷物はサトウのごはんとインスタントラーメンが満載だった。

ちなみに、ベトナム語も英語もまったくわからないが、それでも何とか生活していけたのでベトナムはそういった意味では暮らしやすい国なのだと思う。お金の桁数が多すぎるのは何とかして欲しい。

ハノイへの着任後すぐにホーチミンにある開発会社の買収案件が持ち上がり、買収対象の所属社員との面談業務などなかなか味わえない仕事をすることができた。(海外子会社のCTOという時点で、なかなか味わえない仕事ではあるけれど)

2019年

後に妻となる人と付き合い始める。

殆ど日本に居ない状態だったので、日本の住所はわりと近かったのになかなか会うことができなかったが、妻が色々と頑張ってくれたおかげで付き合いを続ける事ができた。

この年も半分以上ベトナムで過ごしていた。

忙しすぎて何をしていたか良く覚えていないが、ベトナムでの仕事に加えて日本のエンジニアの採用活動も並行していていたり、日本の組織横断チーム(フロントエンド・インフラ)のマネジメントも行っていた。

ライブに行くためだけに5日間だけ日本に帰国したりもした。

弟が白血病だと母親から連絡があった。

2020年

この年の2月に、ぼくが岩手から東京に出てくるにあたってお世話になった方が若くして亡くなった。25~6歳の頃に岩手から東京の勉強会に来たときに家に泊めて貰ったり、泊めて貰った時に配信したUstが縁で仕事が見つかったり、ぼくの人生のキーマンの一人だ。東京に転職してきた時も、内定先の飲み会でしこたま飲んで酔っ払った時も上司共々家に泊めてくれた。ぼくの方が先に辞めてしまったが、仲間内で建てた会社で一緒に働いていた事もあった。

新型コロナウイルスの感染者数が爆発的に増えたのもこの時期だった。

飛行機が定期的に飛ぶことが当たり前ではなくなり、ベトナムへの渡航を控えるようになった。どこの会社でもリモートワークが始まり、その流れで彼女と同棲を開始したのもこの時期。

春先に弟のドナーになれるかどうかの検査を受けた、何ヶ月以内に海外に行っていると移植できないなどの条件もあったので、ある意味でベトナムに行く事がなくなったのはタイミングが良かった。コロナ禍とベトナムでの偏食でですっかり太っていて「(型はあってるのに)痩せないとOKが出せない」と言われてダイエットに励んだ。(無理なダイエットによりその後ガッツリリバウンドした)

この時点で、これまでの実績から移植を行った場合の弟の予後に関しての情報を伝えられた。

7月に1週間ほど入院して、ドナーとしての務めを果たした。

コロナ禍真っ盛りの時期であり、病院につくなり個室に隔離され完全防護の病院職員の方にPCR検査をして貰い、検査結果がでるまで病室から出ることを禁じられた。

弊社はこの時期完全リモート環境だった上に、生来の出不精が手伝って自宅の敷地内から1月のうち1日も出ないなんて事もあったレベルだったので、PCR検査は当然のように陰性だった。入院中は病院から出ることはできなかったが、ある程度院内を自由に歩くことができたので弟とセミクリーンルームと通常の病棟を仕切る扉越しではあったが顔を合わせることができた。これが自分の力で立って歩いている弟を見た最後のタイミングになった。

白血病のドナーと言っても、現代では骨髄移植だけでなく末梢血幹細胞移植という方法もあって、ぼくの場合は末梢血幹細胞移植が選択された。「人によっては痛む場合もある」と告知された上で、数日かけて造血幹細胞を増やす薬を投与された。最初の2日間くらいは特に体調の変化もなく食欲もあったが、3日目から「痛む場合もある」ってレベルじゃねーぞ……という痛みと発熱に襲われ、座っていることもできなくて食事もろくにとれない状態になった。4日目には腰の骨の痛みが限界を突破し、まともに歩くことも出来ない状態になった。人によっては造血幹細胞を増やす薬を通院で注射する人も居るようだが、悪い事はいわないので入院した方が良い(入院費は掛からない)。尚、4日目の昼前に弟から「コンビニで買ってきてほしいものがある」とLINEが来たので腰の骨が爆発した状態のまま奇妙な動きで歩きながら買い物をこなした。

5日目は両腕にぶっとい針を刺して機械に繋がれ、一度機械に血液を流して造血幹細胞を取り出し、取り出し終わった血液を身体に戻すという工程だった。一度機械の中を通って血液が戻ってくる関係上、機械の中で血液が冷えてから身体に戻ってくるので身体がめっちゃ冷える上に拘束時間も半端ないので、事前にかならずトイレに行っておく事をオススメする。体調悪くもないのに尿瓶の世話になる可能性がある。血液を一度身体から出して、もう一度身体に戻すという健康体だとなかなか出来ない経験をする事になったが、この工程の間ずっと医師と移植コーディネーターと看護師さんが付き添ってくれた(危ないもんね)。すっかり病院食に飽きていたので、翌日の退院後どこでラーメンを食べたら良いのかを相談しながら一通りの作業が終わるまで、経済ではなく血液を回していた。

血液を回した翌日には痛みもすっかりひいて、晴れて退院となった。前日予定したラーメン屋でラーメンを食べ、新幹線に乗って仙台から東京の自宅に帰ったあと、自分でも全く認識していなかった疲れにより全く動けない状態になったのを覚えている。

ちなみに、激しい痛みに襲われた甲斐があって、必要量の二倍以上の量の造血幹細胞を採取することができ、一度目の移植が終わった後に残りは必要な時に備えて冷凍保存された。

移植自体は成功とも失敗とも言えない、そんな中途半端な状態だった。

そんなこんなで、年末に結婚した。

世間的にも、家庭的にも、両名の友人の数的にも大々的に式を上げるような状況でもなかった為、式場のフォトプランで結婚式をした。式場のカメラマンがキッチリ写真を撮ってくれるし、ドレスも式場が持ってるガッツリした奴だったし、産まれて初めてメイクされたりして「これを大規模にやったらぶっ倒れる」と思った。

仕事の面では数年ぶりの新卒採用再開を提案し、実行に移した事が一番大きな出来事だったと思う。

この年はベトナムハノイホーチミンのCTOに加えて、日本のエンジニア組織のCTOにも就任した為、仕事も忙しかった上にプライベートも様々なことがあって大変だった。

2021年

この年は弟の病状の波もあって、大きな出来事はないが日常が重かった。沢山とれて保存されていた残りの造血幹細胞も使われた。

仕事の面では数年ぶりに新卒のエンジニアが入社し、教育担当として四苦八苦していたが、教育自体は割と上手く行って現場からも好評だった。

2022年

この年、弟が亡くなった。 結果として移植は残り時間を数ヶ月から、2年間に伸ばした。 弟はぼくと同じくガチオタだったので、様々なコンテンツを消費する時間が提供できて良かった。

他にも色々あってプライベートでも仕事でもパフォーマンスを落してしまっていたが、役立たずってほどではなかったと思う。

新卒教育はこの年も継続してぼくの担当で、こちらに関してはなんとかパフォーマンスを落とさずこなせて良かったと思っている。

自分は相当メンタルが強い方だと思っていたが、これだけ色々重なるとそれなりにダメージは蓄積するし、自分ではコントロールし難いパフォーマンスの低下も起きてしまうのだなと年末に振り返った。 21年、22年に書く事があまりないのは、このあたりの事も影響しているのだと思う。

総評

コロナ禍突入と共に、人生も荒波のタイミングに突入してマヂしんどかった。

そして、ブログを書き始めた当初は定まっていなかったポジションが、すっかりCTOに定まってしまったので、どっか別の場所でブログを書き続けようと思います。